第 1 章 ― 私たちは、どこにいるのか
1-13
増え続ける情報と、共通の軸の喪失
第1章の最後に、現代を生きる私たちが、今この瞬間、何に晒されているかを、もう一度はっきりと見ておきたい。
ここまでの議論を踏まえると、現代の生きづらさの根っこには、いくつかの大きな現象が同時進行していることが見えてくる。
ひとつは、情報量の爆発。
もうひとつは、共通の軸の喪失。
そして、その奥にもうひとつ、物質的に満たされた先に立ち上がる、意味の問い。
この3つが重なったときに何が起きるか ― それが、第1章の締めくくりの話である。
情報量は、加速度的に増え続けている
私たちが今、どれほどの情報量に晒されているか。
これを、歴史と比較すると、驚くべき規模だと分かる。
インターネット普及前、人間が一生で触れる情報量は、限られていた。
読む本の冊数、聞ける話の数、見られる景色 ― すべてに物理的な制約があった。
現代はどうか。
ある試算によれば、現代人は、江戸時代の人間が一生で触れた情報量を、1日で受け取っているとされる。
これは、決して大げさな話ではない。
朝起きた瞬間から、スマホに通知が並ぶ
通勤中、SNSのタイムラインが無限に続く
仕事中、メッセージとメールが次々に届く
ニュースアプリが、世界中の出来事を切れ目なく流してくる
広告が、目に入る至るところに散らばっている
帰宅後、テレビや動画が次のコンテンツを自動で再生する
寝る前まで、ことばと映像が止まらない
情報の洪水は、もはや止めようがない。
止めようとすれば、現代社会の中で生きづらくなるほどに、情報摂取は組み込まれてしまっている。
そして、この情報量は、これからもさらに増え続けていく。減ることはない。
結果として、人は得た情報に、人生を支配されるようになった
情報を得ているのは、自分のはずである。
だが、よく見てみると、本当は逆になっている。
情報が、人を動かしている。
ニュースを見て、不安になる
SNSを見て、誰かと比較する
広告を見て、欲しくなる
通知が来て、注意が中断される
アルゴリズムが見せたものに、何時間も時間を奪われる
自分が選んで情報を受け取っているのではなく、情報が一方的に流れ込んできて、自分の感情と判断と行動を作っている。
人生の主導権が、知らないうちに、情報の側に移っている。
これは、現代を生きるほとんどの人に、程度の差はあれ、起きていることである。
無意識に受ける、ことばのシャワー
特に深刻なのが、ことばの問題である。
第1章で見たように、人間はことばで動く存在に近い構造を持っている(1-1、後の章で詳しく扱う)。
入力されたことばが、思考と感情と判断を作っていく。
その視点で、現代人の一日を眺めると、ぞっとするような光景が見える。
朝、目を覚ました瞬間に、スマホのことばを浴びる
通勤中、他人の投稿のことばが、流れ込む
仕事中、メッセージとメールのことばが、絶え間なく届く
昼休み、ニュースサイトのことばが、目に飛び込んでくる
夜、動画やドラマのことばに、長時間さらされる
寝る前まで、ことばが止まらない
朝から夜まで、ことばのシャワーを浴び続けている。
そして、これらのことばのほとんどは、自分が選んだものではない。
アルゴリズムが、エンゲージメントが高いものを選んで見せている
広告主が、買わせたい商品のことばを送り込んでいる
投稿者が、自分の主張や感情を流している
ニュースは、注目を集めやすい話題を選んでいる
つまり、私たちが浴びていることばの大部分は、誰か他の人の都合で選ばれたものである。
自分の人生にとって良いかどうか、自分の感情にとって健康かどうかは、考慮されていない。
選んでいないことばが、無意識のうちに自分を作り変えていく
このことばのシャワーが、無自覚なうちに、自分自身を作り変えていく。
選んでいないことばが、
感情を作る(怒り、不安、嫉妬、焦り)
判断基準を作る(何が良くて、何が悪いか)
不足感を作る(自分には何かが足りないという感覚)
価値観を作り変える(何を大事にするか)
これは、誰かが悪意で操作しているという話ではない。
情報を流す側は、それぞれの利益のために最適化しているだけである。
だが、その結果として、受け手の側は、知らない間に作り変えられていく。
自分の感情も、判断も、価値観も、いつの間にか「自分のもの」ではなくなっている。
誰かのことば、誰かのアルゴリズム、誰かの広告によって、形作られたものになっている。
これが、現代を生きる人の、もうひとつの構造的な姿である。
同時に、その背後で、共通の軸が失われている
これだけでも十分に重い話だが、ここに、もうひとつの現象が重なる。
情報が増えていく一方で、その情報をどう判断するかの「共通の軸」が、社会全体から失われている。
ここで、誤解を避けるために、はっきりさせておきたい。
これは、道徳や倫理が「希薄になった」という話ではない。
むしろ、現代は、過去のどの時代よりも、道徳的・倫理的に厳しい時代である。
人権意識は、歴史上もっとも高まっている
ハラスメントやパワハラへの社会的な厳しさは、過去とは比較にならない
コンプライアンスや倫理規定は、企業でも社会でも、強化される一方
環境倫理、生命倫理、動物福祉といった新しい倫理領域も、次々に立ち上がっている
倫理意識が薄くなったのではない。むしろ、研ぎ澄まされてきている。
変わったのは、軸の「あり方」のほうである。
かつては、共通の軸が、社会から無料で提供されていた
長らく、人類は、「何を判断軸にして生きるか」を、自分で考える必要がなかった。
なぜなら、社会の側が、共通の軸を無料で提供してくれていたからである。
宗教が、「これが正しい」を提供した。
神の前で、何が善で、何が悪か。聖典に書かれていることが、判断の基準になった。
共同体が、「人としてこうあるべき」を提供した。
村の中で、人はどう振る舞うべきか。長老や年長者が、生き方の手本を示していた。
家族が、「うちはこう生きる」を提供した。
親や祖父母から、家の価値観が代々受け継がれていった。
伝統が、「先祖代々こうしてきた」を提供した。
過去から積み上げられてきた知恵が、何をすべきかを教えてくれた。
これらは、判断の手間を、社会が引き受けてくれていたということでもある。
「何が正しいのか」を、ゼロから自分で考える必要はなかった。
すでに用意されたものを、受け取って、その通りに生きればよかった。
これは、息苦しさもあった。だが、同時に、軽さもあった。
だが、近代化の中で、それらの力は次々に弱まった
ところが、近代化の流れの中で、これらは次々に力を失っていった。
宗教の権威が、科学の発展とともに低下した(1-3、1-5)
共同体は、都市化と核家族化の中で解体された
家族の役割も、個人主義の浸透とともに大きく変わった
伝統は、「古いもの」「過去のもの」として、相対化された
これは、悪いことばかりではない。
個人の自由が尊重されるようになり、「こう生きるべき」と他人から押し付けられることが、減った。
だが、同時に、無料で提供されていた共通の軸が、消えた。
判断の手間を、社会が引き受けてくれなくなった。
軸は「消えた」のではなく、「個人化」と「複数化」が同時に起きた
ここで、もう少し丁寧に見ていきたい。
軸そのものが、世の中から消えたわけではない。
正確に言うと、軸の「あり方」が、二つの方向に大きく変わった。
個人化
かつては、社会が共通の軸を提供していた。
今は、ひとりひとりが、自分で選ぶしかない。
「何を大事にするか」「どう生きるか」 ― これらは、もう誰も決めてくれない。
教科書にも、書かれていない。
親も、確信を持って答えられない。
自分の人生の判断軸を、自分で組み立てる必要がある。
これが、判断の「個人化」である。
複数化
そしてもうひとつ、決定的な変化がある。
倫理や価値観そのものが、複数並立するようになった。
現代社会には、こんな対立が常に並んでいる。
環境を守る vs 経済成長を優先する
個人の自由を尊重する vs 集団の調和を保つ
多様性を受け入れる vs 伝統を継承する
効率性を追求する vs 公平性を守る
仕事を優先する vs 家庭を優先する
どれも、「正しい」と主張できる軸である。
どれかを選んでも、別の軸の側から批判される構造がある。
これが、判断の「複数化」である。
自由になった代わりに、判断の負担が個人に集中している
この「個人化」と「複数化」が同時に起きたことで、現代を生きる人には、大きな負担がのしかかった。
判断の自由は、確かに増えた。
他人の押し付けから解放され、自分で人生を選べるようになった。
これは、紛れもなく自由の拡大である。
だが、自由になった代わりに、判断の負担が、個人に集中するようになった。
何が正しいかを、自分で考える。
何を優先するかを、自分で決める。
どの軸を選ぶかを、自分で引き受ける。
そして、複数の軸が並立する中で、すべてに応えようとすると、引き裂かれて消耗する。
「キャリアも頑張る、家庭も大事にする、健康にも気を遣う、社会貢献もする、自己実現も諦めない」 ― すべてに合格しようとすれば、当然、人は持たない。
これは、「弱い人」が消耗しているのではない。
真面目に、複数の軸すべてに誠実に応えようとする人ほど、引き裂かれていく構造になっている。
結果として、何を信じればいいか、わからない時代になった
この二つが重なったときに、何が起きるか。
情報は、過去のどの時代より多い。
だが、その情報を判断する共通の基準は、過去のどの時代より見えにくい。
結果として、こうなる。
情報は溢れているが、共通の判断基準がない
答えは無数にあるが、自分にとっての答えがない
比較する相手は無数にいるが、自分の基準がない
倫理基準も複数並立し、すべてに応えようとすると消耗する
これが、現代の生きづらさの、深い構造である。
「情報がないから困る」のではない。
「情報が多すぎるのに、それを判断する共通の軸がない」から、困っている。
豊かさの中の貧しさ。
自由の中の不自由。
選択肢の中の迷い。
外側は満たされているのに、内側で迷子になる ― 現代人の典型的な姿は、ここから生まれている。
もうひとつの背景にも、触れておきたい
ここまで、情報の洪水と、共通の軸の喪失、ふたつの現象を見てきた。
実は、現代の生きづらさには、もうひとつ大きな背景がある。
それは、情報や軸の話より、もう一段深い、人類史的な変化である。
ここに、触れておきたい。
20世紀後半、人類は、ある到達点にいた
長らく、人類にとって、最大の課題は「食べていく」ことだった。
食べ物が、足りる。それ自体が、何千年ものあいだ、人類の中心的な問題であり続けた。
飢えは、ごく普通の現実だった。
ところが、20世紀後半、すくなくとも先進国においては、食べ物が、足りるようになった。
最低限の経済が、満たされるようになった。
住む場所、着る服、医療、教育 ― 多くの人にとって、これらが手に入る状態になった。
物質的な不足が、人生最大の問題ではなくなった。
これは、人類史的に見ても、極めて稀な状態である。
ほんの100年前の人にこの現実を伝えたら、「天国だ」と言われるかもしれない。
すると、新しい問題が浮かび上がってきた
ところが、物質的な問題が解決されると、これまで見えなかった新しい問題が、浮かび上がってきた。
「なんのために、生きるのか」
この問いである。
これは、生存のために必死だった時代には、立ち上がる余地のなかった問いである。
今日の食べ物を手に入れることで頭がいっぱいの人は、「人生の意味」を問うている暇がない。
それどころではない。
ところが、明日の食べ物が、ほぼ確実に手に入る時代になった瞬間に、心の奥に空白ができる。
その空白に、ふと、この問いが立ち上がってくる。
「自分は、なんのために、生きているのだろうか」
これが、現代を生きる多くの人が、ある日突然、立ち止まる瞬間に出会う、根源的な問いである。
かつては、この問いに、社会が答えを用意していた
ここで思い出してほしいのは、この問いが、人類史を通じて、ずっとあったことである。
ただ、かつての時代には、社会が、この問いに対する答えを用意していた。
宗教は、こう答えた。
「あなたは、神に愛されている。神の意図のもとに、生きている」
共同体は、こう答えた。
「あなたは、この村の一員として、この役割を果たすために生きている」
伝統は、こう答えた。
「先祖から受け継がれてきたものを、次の世代に渡していくために、あなたは生きている」
家族は、こう答えた。
「家族を守り、育てるために、あなたは生きている」
人が「なんのために生きるのか」と問う前に、答えは、すでに用意されていた。
それを受け取って、その通りに生きればよかった。
ところが、これらの答えの力が、20世紀後半から急速に弱まっていった。
社会は、もう意味を与えてくれなくなった
宗教の力が弱まった。
共同体は、ほとんど解体された。
伝統は、過去のものになった。
家族の意味も、変わった。
すると、何が起きたか。
社会は、もう、「なんのために生きるか」という問いに、答えを用意してくれなくなった。
そして、ひとりひとりが、自分で見つけるしかない時代になった。
誰も、自分の代わりに答えを出してくれない。
教科書にも、書かれていない。
親も、確信を持って答えられない。
「なんのために、生きるのか」
この問いに、自分一人で、答えなければならない。
物質的な豊かさを手に入れた代わりに、人類は、こうした重い問いを、一人ひとりが個人で背負うことになった。
これが、20世紀後半から21世紀にかけて、世界中で同時並行で起きていることである。
これが、生きづらさの、もうひとつの正体
ここに、現代を生きる多くの人が感じる、生きづらさの、もうひとつの正体がある。
外側は、満たされている。
食べるものはある。住む場所もある。
それなのに、心のどこかに、説明しがたい空虚さがある。
「なんのために、これを続けているのだろう」という、ふとした疑問が、消えない。
これは、贅沢な悩みでもなければ、性格的な弱さでもない。
人類が、物質的な豊かさを手に入れた結果として、構造的に立ち上がってきた問いである。
そして、この問いに対して、自分なりの答えを持っていない人は、ぼんやりとした生きづらさを、一生抱え続けることになる。
逆に、自分なりの答えを少しずつ育てていける人は、同じ条件の中でも、深い充実を持って生きていける。
ここに、現代における、もうひとつの分岐点がある。
これが、現代の生きづらさの構造
ここまで、3つの層を見てきた。
ひとつめは、情報の洪水。
過去のどの時代より、情報が多い。
ふたつめは、共通の軸の喪失。
軸が個人化・複数化し、判断の負担が個人に集中している。
みっつめは、意味の問い。
物質が満たされた先に、新しい問いが立ち上がった。
この3つが重なって、現代を生きる人の生きづらさを、深く、複雑なものにしている。
これが、現代の生きづらさの、構造である。
だから、自分の中に「軸」を作ることが必要になる
この構造の中で、現代を生きるために必要なものは、はっきりしている。
自分の中に、軸を作ること。
何に意識を向けるか、自分で選ぶ
何を信じるか、自分で決める
どんなことばを自分に入れるか、自分で設計する
何を大事にして生きるか、自分のことばで持つ
なんのために生きるのか、自分なりの答えを育てていく
これは、誰かが代わりに作ってくれるものではない。
教科書にも、マニュアルにも、書かれていない。
自分自身で、毎日少しずつ、組み立てていくしかない。
これは、確かに個人の努力に属する話である。
社会の構造が変わるのを待っていても、何も始まらない。
だが、努力すべき方向を、構造を知らずに探そうとすると、迷子になる。
「もっと頑張れ」「もっと勉強しろ」「もっと稼げ」という方向に、努力を向けても、軸は作られない。
構造を知って初めて、努力の方向が見えてくる。
情報の洪水の中で消耗しているのは、自分が弱いからではなく、構造のせいである
軸が見つからないのは、自分の能力が低いからではなく、軸を提供する仕組みが薄くなったからである
「なんのために生きるのか」が分からないのは、自分の人生がダメだからではなく、社会がもう答えを与えてくれないからである
だから、自分で意識を向け、自分でことばを選び、自分で軸を作り、自分で意味を見出すという技術を、身につける必要がある
これが、第1章で見てきたすべての話の、現実的な結論である。
第1章を、ここで閉じる
私たちは、こういう時代に生きている。
7万年前にことばを手にした人類が(1-1)、
2500年にわたって哲学的な問いを問い続けてきて(1-2)、
科学で世界の仕組みを明らかにしてきて(1-3)、
だが、5億年の進化と現代社会のGAPに苦しみ(1-4)、
宗教の力が弱まり(1-5)、スピリチュアルの中で漂流し(1-6)、
能力をどんどん外部化し(1-7)、
内面と向き合う技術を蓄積してきた(1-8)、
情報の側面が主戦場になり(1-9)、
教育では補えなかった領域が残り(1-10)、
競争社会の中で消耗する人が増え(1-11)、
そしてAIという文明レベルの転換を迎え(1-12)、
情報の洪水と共通の軸の喪失、そして意味の欠如が同時に進む時代(1-13)。
これが、私たちが今いる場所である。
こうした構造の中で、私たちは「よく生きる」を問わなければならない。
そして、希望もある。
人類はずっと、この問いと向き合ってきた。
2500年前から、形を変えながら、ずっと。
「よく生きるとはどういうことか」という問いには、確かに人類の長い蓄積がある。
完成された答えはないが、考え続けてきた知恵は、確かに積み上がっている。
第1章では、現代という時代の「構造」を見てきた。
第2章では、「よく生きるとは、何か」という問いそのものに、解像度高く向き合っていく。
WellGrowが立っている思想の中心 ― そこに、いよいよ踏み込んでいくことになる。