第 1 章 ― 私たちは、どこにいるのか
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科学の歴史 ― 客観性を獲得した代償
哲学が問いを立て続けてきた一方で、人類はもうひとつの大きな営みを発展させてきた。
科学である。
哲学が「どう生きるべきか」「世界とは何か」を問い続けてきたとすれば、科学は「世界はどうなっているのか」を、観察と実験で確かめ続けてきた営みだった。
17世紀以降、科学は爆発的に発展した
科学が体系として動き出したのは、17世紀のことだった。
ガリレオが望遠鏡で天体を観測し、ニュートンが万有引力の法則を打ち立てた。それまで「神の領域」とされていた自然現象が、人間が手で測れる対象になった。
そこから先の400年は、人類史上もっとも知識が増え続けた時代だった。生物学、化学、物理学が次々と体系化された。
20世紀には、アインシュタインの相対性理論が時間と空間の常識を覆し、量子力学が物質の最小単位の不思議さを明らかにした。ワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造を発見し、生命の設計図が読めるようになった。
そして21世紀の現在、AIが知性そのものを扱う段階に入った。人間が考えること、理解すること、創造することの中身を、科学が分解し、再現しようとしている。
これは、認知革命以来、人類最大の知の拡張だと言ってよい。
科学が人類にもたらしたもの
科学が人類にもたらしたものは、計り知れない。
病気の多くは、克服された。
平均寿命は、200年前と比べておよそ倍になった。かつては当たり前に命を落としていた感染症が、ワクチンと抗生物質で治せるようになった。
物質的な豊かさは、過去のどの時代の王侯貴族をも上回っている。
冷蔵庫を開ければ世界中の食材があり、スマホひとつで世界中の知識にアクセスできる。
世界の仕組みを、客観的に説明できるようになった。
雷は神の怒りではなく、電気現象であると分かった。病気は呪いではなく、ウィルスや細菌の働きであると分かった。
人類は、迷信や呪術から解放された。
これは間違いなく、人類最大の進歩のひとつである。
だが、科学には代償もあった
科学の素晴らしさを認めたうえで、ここからが大事な話になる。
科学には、代償もあった。
そして、その代償は、現代の生きづらさと深く関係している。
科学は、その方法論として、世界をふたつに切り分けた。
ひとつは、観測できるもの。
物質、エネルギー、行動、データ。測れるもの、数えられるもの、再現できるもの。
もうひとつは、観測できないもの。
意味、価値、目的、内面の体験。測れないもの、数えられないもの、人によって違うもの。
科学は、観測できるものだけを扱うことで、急速に発展した。観測できないものは、科学の対象から外された。
これは、科学が「客観的な学問」として成立するために、必要な切り分けだった。観測できないものを扱おうとすれば、「私はこう感じた」「私はこう思う」という主観の世界に入ってしまい、再現性のある知識が積み上がらない。だから科学は、観測できる領域に絞ったのである。
ここまでは、必要な選択だった。
問題は、ここから先で起きた
科学が観測できる領域だけを扱ううちに、社会全体に、ひとつの風潮が広がっていった。
「観測できないものは、価値が低い」
「観測できないものは、存在しないも同然」
「観測できるもの、数値化できるものこそが、本物である」
科学そのものは、そんなことを主張していない。「自分は観測できるものだけを扱う」と言っているだけである。
だが、いつの間にか、社会の側が勘違いを始めた。
科学の対象にならないものは、価値が低いものとして扱われるようになった。
具体的には、こういうことが起き始めた。
「私はなぜ生きているのか」 ― 科学では答えられない。だから、考える価値がない、と切り捨てられる。
「何が幸せか」 ― 科学では測れない。だから、人それぞれだよね、で片付けられる。
「この仕事に意味はあるか」 ― 数字に出ない。だから、給料が高いほうを選ぶべきだ、と論破される。
客観性を獲得した代わりに、人類の関心は、観測できるものへと一気に偏っていった。
GDP、売上、フォロワー数、年収、偏差値、いいねの数。
測れるものばかりが、人生の指標として並ぶようになった。
そして、観測できないものは、いつの間にか「あってもなくてもいいもの」になっていった。
だが、人生において本当に大切なものは、観測できないものの中にある
ここで、立ち止まって考えてみる必要がある。
あなたが自分の人生を振り返るとき、本当に大切だったと感じるものは、何だろうか。
愛。
意味。
信頼。
感動。
誰かと過ごした時間。
何かに没頭していた瞬間。
「ああ、よく生きたな」という感覚。
これらは全部、観測できないものである。
測れない。数値化できない。他人と比較もできない。
だが、これらこそが、人生の中心にある。
お金や肩書や数字は、どれだけ積み上げても、これらの代わりにはならない。
科学が客観性を獲得した代償として、私たちは、人生の中心にあるはずのものを、扱う術を失いかけている。
現代人は、外側の豊かさの中で、内側で迷っている
これが、現代の生きづらさの大きな構造である。
歴史上もっとも豊かな時代に生まれ、
歴史上もっとも長く生きられる時代に育ち、
歴史上もっとも便利な道具に囲まれている。
それなのに、多くの人が、満たされない感覚を抱えている。
何かが足りない。
何のために頑張っているのか分からない。
うまくいっているはずなのに、心が空っぽに感じる。
これは、個人の弱さの問題ではない。
観測できるものばかりが大事にされる世界で、観測できないものを扱う方法を、誰も教えてくれなかったという、構造の問題である。
外側は、十分豊かになった。
だが、内側を扱う技術は、置き去りにされてきた。
科学を否定するつもりは、まったくない。
科学は、人類の偉大な達成である。
WellGrowが信じているのは、こういうことである。
科学が扱える領域は、科学に任せればいい。
だが、人生の中心にある「観測できないもの」は、私たち自身が、別の方法で扱わなければならない。
意味、価値、目的、内面の体験 ― これらに、毎日少しずつ向き合う場所を持つこと。
それが、外側の豊かさに飲み込まれずに、自分の人生を生きていくための、現代的な技術になる。
科学が獲得した客観性を尊重しながら、科学が扱えない領域にも、ちゃんと光を当てる。
このバランスを取り戻すことが、現代を生きる人間の課題である。