第 1 章 ― 私たちは、どこにいるのか
1-2
哲学の歴史 ― 人間は何を問い続けてきたか
哲学と聞くと、難しい本、難解な概念、現実離れした議論 ― そんな印象を持つかもしれない。
だが、哲学はもっとシンプルに捉えることもできる。
哲学は、人類が問い続けてきた、その歴史である。― そう見ることもできる。
ことばを手にした人間(1-1)が、「自分とは何か」「世界とは何か」「どう生きるべきか」と問い始めた瞬間から、哲学は始まった。哲学者の名前を覚える必要はない。大事なのは、人類がどんな問いと向き合ってきたかという、その流れを掴むことである。
古代ギリシャ ― 「よく生きるとは何か」を問うた
哲学が体系として始まったのは、約2500年前の古代ギリシャだった。
ソクラテス、プラトン、アリストテレス。彼らが立てた問いは、驚くほどシンプルだった。
善とは何か。
幸福とは何か。
徳とは何か。
そして、よく生きるとは、どういうことか。
彼らは、生きることそのものに、まっすぐ問いを向けた。商売の繁栄でも、戦争の勝利でもなく、「人間として、よく生きるとはどういうことか」を、街角で議論し続けた。
この問いが、哲学の出発点になった。そして、この問いは2500年経った今も、答えが出ていない。
中世 ― 神と人間の関係を問うた
時代が下ると、問いの中心は神に移っていった。
神は存在するか。
信仰とは何か。
人間の本質は何か。
中世の哲学は、キリスト教の世界観の中で営まれた。「よく生きる」とは、神の前でどう生きるかという問いに置き換えられた。
私たちは現代に生きているから、神を中心とした世界観を、自分の問題として受け取りにくい。だが、人類が長い時間、神という大きな枠組みの中で意味を考えてきたという事実は、覚えておく価値がある。なぜなら、その枠組みが弱まったことが、現代の生きづらさにつながっているからである(後の節で扱う)。
近代 ― 理性と知識の本質を問うた
17世紀以降、人類は神に頼らずに、自分の頭で考えることを始めた。
デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言った。
すべてを疑った末に、疑っている自分の存在だけは疑えない、と気づいた瞬間である。哲学の中心が、神から人間の理性へと移った。
カントやヘーゲルは、こう問うた。
認識とは何か。
自由とは何か。
人間が世界を「知る」とは、どういうことか。
近代の哲学者たちは、人間の理性そのものを徹底的に検証した。私たちが今、「自分で考えて、自分で決めていい」と思えるのは、近代の哲学が切り開いた地平の上に立っているからである。
19世紀以降 ― 神なき世界での意味を問うた
19世紀に入り、ニーチェが衝撃的なことばを残した。
「神は死んだ」
これは神への呪いではない。事実の宣言だった。科学の発展と共に、人々はもう、神を素朴に信じることができなくなっていた。
そこで、新しい問いが立った。
神がいなくなった世界で、人間はどうやって意味を見つけるのか。
実存主義の哲学者たちは、こう答えた。
意味は、与えられない。
自分で、作るしかない。
これは厳しい答えである。かつては宗教が「あなたはこのために生きている」と教えてくれた。だが、その枠組みがなくなった今、ひとりひとりが自分で意味を作らなければならない。
現代の生きづらさの源流は、ここにつながっている。自由を手に入れた代わりに、私たちは意味を自分で作る重荷を背負った。
20世紀半ば ― 主体としての人間を、問い直した
ところが、20世紀の半ばに、もうひとつ大きな揺さぶりが起きた。
これまでの哲学は、「人間は、自由に考え、自由に決められる存在だ」という前提に立っていた。理性で考え、自分で意味を作る ― そういう主体としての人間像が、近代以降の哲学の土台にあった。
ところが、この前提そのものが、根本から問い直されることになった。
構造主義と呼ばれる、新しい潮流である。
レヴィ=ストロースは、人類学から問いを立てた。
ソシュールは、言語学から問いを立てた。
ラカンは、精神分析から問いを立てた。
フーコーは、歴史と権力から問いを立てた。
それぞれ専門は違うが、彼らがたどり着いた洞察は、驚くほど似ていた。
人間は、自分で考え、自分で選んでいるつもりでいる。
だが、実際には、社会の構造、言語の構造、無意識の構造に、深く組み込まれている。
「自分が決めている」と思っていることも、その大部分は、構造が決めている。
これは、近代までの「主体としての人間」観への、根本的な揺さぶりだった。
「自分で意味を作る」と言われても、その「自分」が本当に自分なのか。
自分の頭で考えていることも、実は、社会や言語の枠が考えさせているだけではないのか。
実存主義が主体を持ち上げたのに対して、構造主義は、主体そのものを解体した。
この揺さぶりは、現代に生きる私たちの足場を、複雑なものにしている。
自由に考えていると思っていることが、本当は自由ではないかもしれない。
そう問われたとき、私たちはどう答えればいいのか。
この問いに、ひとつの応答を試みた哲学者として、現代のマルクス・ガブリエルがいる ― この話は、後の章(2-3)で詳しく扱いたい。
現代 ― 言語、社会、存在そのものを問う
20世紀後半から現在に至る哲学は、より根源的な問いに踏み込んでいる。
意識とは何か。
自由意志は本当にあるのか。
言語は、思考をどう規定しているのか。
AIは、知性を持てるのか。
これらは、もはや哲学だけの問題ではない。脳科学、認知科学、情報科学が一緒になって取り組む問いである。
そして、これらの問いは、抽象的な学問の話ではない。
「私が見ている世界は、本当の世界なのか」
「私が下している決断は、本当に私が下しているのか」
「AIと対話している私は、何をしているのか」
日常のすぐ隣にある問いに、つながっている。
問いは、形を変えながら、ずっと同じ
こうして2500年の哲学の流れを眺めると、ひとつのことに気づく。
問いの言い方は、時代ごとに変わっていく。
神を中心に問うた時代もあれば、理性を中心に問うた時代もある。
だが、その奥にある根本の問いは、ずっと変わっていない。
よく生きるとは、何か。
自分とは、何か。
世界とは、何か。
2500年経っても、これらの問いに「決定版の答え」は出ていない。出ていないからこそ、人類は問い続けてきた。
ここで、ひとつの大事な視点が見えてくる。
哲学は、答えを出すことが目的ではないのかもしれない。
問い続けること、それ自体に価値があるのかもしれない。
ソクラテスは、弟子たちに答えを与えなかった。ひたすら問いを返した。問いに向き合うこと自体が、人間を磨くと信じていたからである。
WellGrowが信じているのも、これと同じことである。
人生の答えを、誰かが用意してくれることはない。
2500年の人類が答えを出せなかった問いに、AIが代わりに答えることもない。
できるのは、自分の人生について、自分で問い続けること。
そして、その問いと向き合う日々を、丁寧に積み重ねていくこと。
WellGrowは、それぞれの人が、自分の問いと向き合えるように支援する場である。
哲学者にならなくていい。
難しい本を読む必要もない。
ただ、今日の自分に、ひとつの問いを投げかける。
それが、2500年の哲学の系譜に、自分なりの形で連なるということである。