第 2 章 ― よく生きるとは、何か
2-3
生きる意味とは ― 答えのない問いとの付き合い方
ソクラテスとブッダから、「よく生きる」を考える出発点を受け取った。
ここで、もうひとつ、誰もが人生のどこかで一度はぶつかる、大きな問いに向き合っておきたい。
「生きる意味は、何か」
この問いは、重い。
口にすると、急に空気が変わるような問いである。普段は意識していなくても、ふとした瞬間に立ち現れて、心の底をざわつかせる、そんな問いである。
第2章を進めていくうえで、この問いを避けては通れない。
「生きる意味は何か」は、人類が最も長く問い続けてきた問い
「生きる意味は、何か」
この問いは、人類が言葉を手にして以来(1-1)、ずっと問い続けられてきた。
宗教は、この問いに答えるために生まれた側面がある。
哲学も、この問いに向き合うために展開してきた側面がある。
文学も、芸術も、心理学も、結局のところ、この問いの周辺をずっと旋回してきた。
2500年、いや、それ以上の時間をかけて、人類は最も賢い人たちを動員して、この問いに向き合ってきた。
そして、ここに、ひとつの厳然たる事実がある。
人類は、この問いに、決定的な答えをまだ出せていない。
これは、人類が怠けてきたからではない。
むしろ逆である。あまりに多くの賢人が、本気で取り組んできた。それでも、万人に通用する答えは、出ていない。
ということは、おそらく、この問いには「ひとつの正解」というものが存在しないのである。
大きく分けて、二つの立場がある
人類が出してきた答えを、大きく分けると、二つの立場になる。
立場1 ― 意味は、最初から与えられている(宗教的な立場)
ひとつめの立場は、こう考える。
人生には、最初から意味が与えられている。
神が、あるいは仏が、あるいは何らかの大きな存在が、私たち一人ひとりに役割を与えてくれている。
だから私たちは、その意味を「発見」すればいい。
この立場は、宗教の伝統の中で、長く受け継がれてきた。
キリスト教では、神は人間を愛しているとされる。だからあなたが生きていること自体に、神の意図がある。
仏教では、すべての存在は縁起の網の中で意味を持つとされる。あなたがここにいることにも、つながりの中での意味がある。
これらは、信じる人にとっては、深い安心と支えになる。
「自分の人生には、自分を超えた意味がある」と確信できることは、人生の不安を大きく和らげる。
立場2 ― 意味は、自分が作り出すもの(実存主義的な立場)
もうひとつの立場は、こう考える。
人生には、最初から意味は与えられていない。
意味は、自分で作り出すしかない。
何もない場所に、自分が立って、自分のことばで、意味を打ち立てる。
これは、19世紀以降の実存主義の哲学者たちが、強く主張してきた立場である(1-2)。
ニーチェが「神は死んだ」と宣言した後、人類は新しい立ち位置を迫られた。
神が意味を与えてくれないなら、誰が与えてくれるのか。
答えは、「自分で作るしかない」だった。
サルトル、カミュ、ハイデガーといった哲学者たちは、この立場を深めていった。
人生に意味がないことを直視したうえで、それでもなお、自分で意味を作り上げて生きていく。
この姿勢を、彼らは「実存」と呼んだ。
現代は、迷子になる人が多い
この二つの立場、どちらが正しいのか。
これも、答えがない。
ただ、現代という時代の特徴として、はっきり言えることがある。
現代は、生きる意味において、迷子になる人が多い時代である。
なぜか。
かつての社会では、宗教が共同で信じる意味の枠組みを、人々に提供していた(1-5)。
村の人々は皆、同じ宗教を信じ、同じ意味の枠組みを共有していた。
「人生はこういうものだ」「これが大事だ」という共通の物語が、生まれた瞬間から与えられていた。
迷う必要が、少なかった。
意味は、最初からそこにあって、それを受け取って生きればよかった。
ところが現代では、その宗教の力が弱まった。
そして、それに代わる、強力な思想や哲学のリーダーも、もう存在しない。
かつてのように、「これを信じれば大丈夫」と言える、共通の枠組みがない。
結果として、ひとりひとりが、この問いに自分で答えることを強いられている。
「私の人生の意味は、何か」
誰も教えてくれない。
自分の頭で考えて、自分のことばで答えを作るしかない。
これは、自由ではある。
だが、同時に、重い負担でもある。
かつての時代になら、宗教が代わりに答えてくれていた問いに、いまは自分一人で向き合わなければならない。
「生きる意味が分からない」という感覚は、現代人に特有の悩みではない。
だが、これほど多くの人が、この感覚を抱えている時代は、人類史上、初めてかもしれない。
この迷いを、20世紀の哲学はどう捉えてきたか
この「迷子」の状態を、20世紀の哲学は、もう一段深いところで捉えようとしてきた。
ここに少しだけ立ち入っておきたい。哲学史の細かい話ではなく、現代を生きる私たちにとって、何が起きているかを、もう少し正確に理解するために。
構造主義 ― そもそも「自分」は、自由に決めていない
20世紀半ばに、こんな問いを立てた人たちがいた。
「そもそも人間は、自由に考え、自由に決められる存在なのだろうか」
これが、構造主義と呼ばれる思想の出発点である(1-2)。
構造主義は、こう言った。
人間は、自由な主体として、自分の頭で考え、自分の意志で選んでいる ― そう思っているかもしれない。
だが、実際には、人間は、社会や言語や無意識の「構造」に、深く組み込まれている。
自分が決めていると思っていることも、その多くは、その構造が決めている。
たとえば、自分が「美しい」と感じるもの。
それは、自分が選んで美しいと感じているのではない。
自分が生まれた文化、自分が浴びてきた価値観の構造が、「これは美しい」と感じさせている。
別の文化に生まれていれば、まったく違うものを美しいと感じていたはずである。
たとえば、自分が「成功」と呼ぶもの。
それも、自分が独自に決めた基準ではない。
社会が共有している成功の物語が、自分の中に流れ込んできて、それを成功だと感じさせている。
こうした見方を、構造主義は、人類学や言語学や精神分析の中から、立ち上げてきた。
ポスト構造主義 ― 主体としての「自分」も、もう存在しない
構造主義は、さらに進んで、ポスト構造主義と呼ばれる思想に展開していった。
そこでは、もっとラディカルな主張が出てくる。
「何かを決めるような確固たる『自分』は、もはやどこにもいない」
主体としての人間は、解体された。
自分が自分の人生の中心に立っている、という近代的な人間像は、もう成り立たない。
ただ、構造の中で動いている、流れの中の一点 ― そうとしか言えない。
これは、知的には鋭い洞察だった。
だが、現代を生きる人々の「生きる意味」の悩みに対しては、何の救いももたらさなかった。
構造主義は、現代人を救わなかった
なぜ、救わなかったのか。
意味の問題は、まだそこにあるからである。
社会は、もう意味を与えてくれない。
かつての宗教のように「人生にはこういう意味がある」と提供してくれる枠組みは、ない。
一方で、構造主義は、「意味を自分で作る主体」も否定する。
「意味を作るような自分など、いない」と言う。
そうなると、どうなるか。
意味は、外からも与えられない。
かといって、自分で作ることもできない、と言われる。
人は、行き場をなくす。
しかも、20世紀後半は、食べ物が足り、最低限の経済が満たされた時代でもあった(1-13)。
生存の問題が解決された結果、人々は、かえって意味に飢えるようになった。
意味を求める心は、過去のどの時代よりも、強くなっていた。
その「意味への飢え」が立ち上がってきた瞬間に、外からも内からも、意味の出どころが閉ざされていた。
ここに、現代の哲学的な行き詰まりがあった。
新しい応答 ― マルクス・ガブリエルの「新実存主義」
この行き詰まりに、新しい応答を試みている哲学者がいる。
ドイツの哲学者、マルクス・ガブリエル。
彼が提唱している考え方を、「新実存主義」と呼ぶ。
ガブリエルは、こう主張する。
確かに、人間は、社会や脳の構造の中に組み込まれている。
脳科学や構造主義が指摘してきたことは、正しい。
人間を「状況に反応する存在」として説明することは、できる。
だが、人間は、それだけではない。
人間は、意味の世界を生きている。
出来事に意味を見出し、世界に意味を読み取り、自分の中に意味を作っていく。
この「意味をとらえる、意味を作る」というはたらきこそが、人間という存在の、もっとも重要な特徴である。
これは、構造には還元できない。
脳の物理的な仕組みからも、社会の構造からも、完全には説明できない。
意味を生み出すことは、人間が、人間として、世界に対して持っている、固有のはたらきである。
そして、だからこそ、人が持つ意思や、目指すことには、計り知れない価値がある。
意思を持って、何かを目指していくこと自体が、構造を超えた、人間の本質的な営みである。
WellGrowは、この新実存主義の立場に近い
WellGrowが、なぜ「意思」を中心に据えているのか。
なぜ「意味を作る」ことを大事にしているのか。
それは、この新実存主義の立場に、近いところに立っているからである。
人間は、構造に組み込まれている存在ではある。
だが、ただそれだけの存在ではない。
人間は、意味を作り、意思を持つ存在である。
そして、この「意味を作り、意思を持つ」というはたらきこそが、人間にとって、もっとも価値あるものである。
WellGrowは、この立場を、何より大事にしている。
そして、ひとりひとりが、自分の意味を作り、自分の意思を育てていけるように、毎日の対話を設計している。
ここから先の章で展開する内容は、すべて、この立場の上に組み立てられている。
そう知っておくと、これから読む話が、よりはっきりとした輪郭で立ち上がってくるはずである。
どちらの立場でも、「自分の中で腑に落ちている」ことが大事
哲学の話が長くなった。
ここで、また、もう少し日常に近い話に戻りたい。
ふたつの立場 ― 「意味は与えられている」と「意味は自分で作る」 ― のうち、どちらが正しいのかを、決める必要はない。
宗教を信じて、与えられた意味を受け取って生きるのも、ひとつの立派な答えである。
自分で意味を作り出して生きるのも、もうひとつの立派な答えである。
両方を、人生の場面によって使い分けてもいい。
大事なのは、立場の選び方ではない。
自分の中で、腑に落ちていること。
これが、すべてである。
どんなに立派に見える宗教でも、自分の中で腑に落ちていなければ、人生の支えにはならない。
どんなに格好いい哲学でも、頭で理解しているだけで、自分のものになっていなければ、力にならない。
逆に、たとえ素朴な答えでも、自分の中で本当に腑に落ちていれば、それは人生を支える本物の意味になる。
「私は、家族のために生きている」
「私は、何かを残すために生きている」
「私は、ただ、毎日を丁寧に生きていきたい」
こうした答えに、明確な根拠はいらない。
あなた自身が、自分のことばで、それを腑に落としていれば、それが、あなたの「生きる意味」である。
意味を見出すとは、どういうことか
では、意味を「見出す」とは、具体的にどういう営みなのか。
3つの側面に分けて、考えてみたい。
起きていることに、自分なりの解釈を与えること
起きている出来事そのものには、最初から意味が貼り付いているわけではない。
仕事を失った ― これは、ただの出来事である。
そこに「人生終わりだ」という意味を貼るか、「新しい道を考えるタイミングだ」という意味を貼るかは、自分次第である。
意味は、出来事の中にあるのではなく、出来事を受け取る自分の中に立ち上がるものである。
自分の人生の物語を、自分で語ること
人生は、無数の出来事の連続である。
それを「ひとつの物語」として繋いでいくのは、自分の力である。
「私は、こういうことを経験して、ここまで来た。これからは、こういう方向に進みたい」
このような自分の物語を、自分のことばで語れること。
これが、「意味を見出している」状態である。
物語を持っている人は、人生がブレない。
物語を持っていない人は、出来事に振り回される。
目の前の出来事に、つながりを見ること
縁起の考え方(後の節で詳しく扱う)とも繋がるが、目の前の出来事に、つながりを見出す力。
これも、意味を見出す力のひとつである。
「いま私がここにいるのは、過去のあの経験があったから」
「いま私が悩んでいることは、未来の何かに繋がるかもしれない」
「いま私の隣にいるこの人は、私にとって何かを教えてくれている」
こうしたつながりを感じられること自体が、人生に意味を与えていく。
意味を見出す力は、技術である
ここで、ひとつ、希望のあることを言いたい。
「意味を見出せる人」と「見出せない人」がいるのは、才能の差ではない。
意味を見出す力は、技術である。
そして、技術である以上、練習で身につく。
毎日の出来事に対して、「この出来事は、自分にとって何を意味するだろうか」と問いかける癖をつける。
ネガティブな出来事に対しても、「ここから何が学べるだろうか」と問い直してみる。
人生のあちこちにあるつながりを、意識的に見ようとする。
こうした練習を、毎日少しずつ重ねていくと、意味を見出す力は、確実に育っていく。
逆に、この力を使わずに生きていると、出来事はただ流れていくだけになる。
何が起きても、自分の中で「意味」として結晶化しないまま、過ぎていく。
意味を見出す力を持っているか、持っていないかで、同じ人生でも、まったく違う深さで体験することになる。
答えのない問いと、一生付き合っていくこと ― それ自体が、よく生きるということ
最後に、第2章の最初に触れたソクラテスの姿勢に、もう一度戻りたい。
ソクラテスは、答えを急がなかった。
問いを抱えて、それと共に生きていく姿勢こそが、「よく生きる」だと考えた。
「生きる意味は何か」という問いは、まさにこの種類の問いである。
決定的な答えが、出ない。
だからといって、どうでもいい問いではない。
むしろ、人生の中で最も大事な問いのひとつである。
この問いに、一生付き合っていくこと。
たまに立ち止まって、自分なりの答えを更新していくこと。
そして、その答えを抱えながら、毎日を生きていくこと。
これ自体が、「よく生きる」ということなのかもしれない。
完成された答えにたどり着くことが、ゴールではない。
問いと共に生きていく姿勢を、生涯にわたって持ち続けることが、よく生きるということである。
WellGrowは、毎日の対話を通じて、この問いを少しずつ、自分のものにしていく場である。
ある日、ふと、「自分は今、これを大事にして生きている」と言えるようになる。
そしてまた数年後、その答えが、少し違った形に育っているのに気づく。
そんな、一生続く問いとの付き合い方を、毎日3分の習慣の中で、育てていく。
それが、答えのない問いと、健康に付き合っていく道である。