第 6 章 ― ただ生きるのではなく、よく生きる
6-2
自分で意味を見出す
悩みは恐れるものではない、悩みはひとつずつ解決できる、と書いた。
この節では、その「解決」を支える、もうひとつの大事な視点を扱いたい。
それは、目の前の出来事に、自分で意味を見出していくこと、である。
出来事には、最初から意味がついているわけではない
まず、ひとつ大事な事実を、共有しておきたい。
出来事には、最初から意味がついているわけではない。
失敗、別れ、病気、トラブル、思い通りにいかないこと。これらが起きたとき、出来事そのものには、まだ意味がついていない。
「これは悪いこと」「これは不幸」というラベルは、出来事に、自動的についているわけではない。
意味は、自分の中で、後から組み立てられているものである。
ふだん、私たちは、出来事と意味が、最初から一体となって立ち上がっているように感じる。
「失敗」と聞けば、自動的に「悪いこと」と感じる。
「別れ」と聞けば、自動的に「つらいこと」と感じる。
だが、よく観察すると、出来事そのものと、それに対する意味づけは、別のものである。
意味は、自分の内側で、後から組み立てている。
同じ出来事でも、意味の見出し方で、人生が変わる
ここから、ひとつの大きな視点が立ち上がってくる。
同じ出来事でも、意味の見出し方で、人生が変わる。
たとえば、失敗。
「自分はダメだ」と意味づけるか、「ここから学べる」と意味づけるか。
たとえば、別れ。
「失った」と意味づけるか、「次の出会いが始まる」と意味づけるか。
たとえば、苦しみ。
「打ちのめされた」と意味づけるか、「自分を強くする経験だった」と意味づけるか。
出来事そのものは、何も変わっていない。ただ、見出した意味が、違うだけ。
それでも、立ち上がる感情も、選ばれる行動も、人生のその後の流れも、まったく違ってくる。
意味の見出し方ひとつが、その出来事を、自分にとって苦しみだけのものにするか、それとも、自分を深める材料にするかを、決めていく。
これは、楽観論ではない
ここで、ひとつ注意しておきたい。
これは、「すべて前向きに捉えよう」という、表層的な楽観論ではない。
「失敗を、学びとして捉えよう」 ― このことば自体は、よく聞く。
だが、ただスローガンとして唱えても、心の底からは、なかなかそう思えない。
WellGrowが伝えたいのは、もう少し違うものである。
意味の見出し方は、技術として扱えるものである、ということ。
リフレーミング(4-8)、概念化(4-3)、感情の観察(4-11) ― これらすべてが、意味を扱う技術である。
第4章で見てきた技術は、まさに、出来事に意味を見出すための道具立てだった。
ことばで、出来事の捉え方を変える。
メンタルモデルから、出来事を見直す。
感情を観察し、その奥にあるものに耳を傾ける。
これらの技術を、丁寧に使っていけば、楽観的な気合ではなく、構造として、意味の見出し方を変えていける。
「意味は、自分で見出す」という立場は、現代において、特に重要
そして、この「意味は、自分で見出す」という立場は、現代において、特に重要なものになっている。
第2章(2-3)で見たように、現代は、意味が与えられない時代である。
かつて、人生の意味は、ある程度、外から与えられていた。宗教が、人生の意味を教えてくれた。共同体が、自分の役割と居場所を示してくれた。伝統が、何を大事にして生きればよいかを、伝えてくれた。
ところが、これらが弱まった現代において、意味は、それぞれが自分で見出していくしかなくなった。
これは、不安をもたらす変化でもある。「これが正解」という外側の指針がなくなったから。
だが、同時に、ひとりひとりの自由を、大きく広げる変化でもある。
与えられた意味ではなく、自分で見出した意味で、生きていける。
それは、自分の人生を、自分のものとして取り戻す道でもある。
意味を見出す力は、人生のどんな出来事も、資源に変える
意味を見出す力が育ってくると、人生に、大きな変化が起きる。
いいことも、悪いことも、すべてが、自分の人生を深める材料になっていく。
「意味を作れる人」は、人生のどんな出来事に出会っても、そこから何かを引き出していける。
成功は、もちろん、自分を励ますものになる。
失敗は、自分を成長させる材料になる。
出会いは、人生の彩りになる。
別れは、自分を深める経験になる。
順調なときは、感謝の機会になる。
苦しいときは、自分の本質と向き合う時間になる。
何が起きても、それを「自分の人生の材料」に変えていける ― これは、もっとも強い、人生への向き合い方のひとつである。
縁起という考え方 ― すべては関係性の中にある
ここで、ひとつ、古くから伝わる見方を、紹介しておきたい。
仏教には、「縁起」という考え方がある。
すべての出来事は、無数の関係性の中で、立ち上がっている、という見方。
ある出来事が、単独で「いい」「悪い」と決まっているわけではない。さまざまな関係性の中で、その出来事の意味が、立ち上がってくる。
そして、関係性は、絶えず変わっていく。
だから、いまは悪く見える出来事も、別の関係性の中では、意味が違って見えてくる。
数年後、別の文脈に出会ったとき、いまつらく感じている出来事が、まったく別の意味を持って、自分の中に立ち上がってくる ― そういうことが、人生の中で、繰り返し起きる。
意味は、固定されていない。
だからこそ、自分で意味を見出していける。
縁起という見方は、現代の認知科学の話とも、深いところで響き合っている。出来事と意味は、別物であり、関係性の中で立ち上がる ― この見方は、人類が、長い時間をかけて辿り着いた、ひとつの叡智である。
日々の小さな出来事の中にも、意味は立ち上がる
意味というと、大きな出来事を思い浮かべがちである。人生を変えた出来事、忘れられない出会い、深い悲しみ ― こうした、はっきりとした出来事に、意味があるように感じる。
だが、意味は、もっと身近なところにも立ち上がっている。
今日の小さな会話。
ふと感じた違和感。
たまたま読んだ一節。
誰かにかけられたひとこと。
帰り道で見た夕焼け。
これらの中にも、自分の人生にとっての意味は、潜んでいる。
毎日、丁寧に、自分の中に立ち上がるものに目を向けていく。
「いま、何が、自分の中で動いただろうか」
「この出来事は、自分にとって、何を意味しているのだろうか」
こうした問いを、毎日少しずつ自分に向けていくと、日常の小さな出来事に、意味が立ち上がってくる。
その積み重ねが、人生に、確実に深みを与えていく。
自分で意味を見出す
最後に、もう一度、書いておきたい。
自分で意味を見出す
ただし、その意味は、最初から決まっているわけではない。
自分の手で、見出していくものである。
そして、見出した意味が、人生の深さを作っていく。
意味のない出来事は、ひとつもない。
ただ、まだ意味が、立ち上がっていないだけ。
ゆっくりと、丁寧に、自分の中で立ち上がってくる意味に、目を向けていきたい。
次の節(6-3)では、その意味を見出すために欠かせない、もうひとつの技術 ― 問いを持ち続けること ― を扱いたい。