第 2 章 ― よく生きるとは、何か
2-6
本当の幸せとは
第2章の中盤に来て、いよいよ、誰もが気にしている問いに向き合いたい。
「幸せとは、何か」
「よく生きる」という大きな問いを考えるとき、「幸せ」というテーマは、避けて通れない。
誰もが、なんとなく「幸せになりたい」と思っている。
だが、「幸せとは、何か」と問われると、答えに詰まる。
ここでは、その問いに、できるだけ素直な角度から向き合っていきたい。
本当の幸せは、自分だけが知っている
まず、結論から言ってしまう。
本当の幸せは、自分だけが知っている。
これは、突き放した結論ではない。
むしろ、深い意味で、希望のある結論である。
幸せの答えを、誰かが用意してくれるわけではない。
本に書いてあるわけでも、専門家が決めてくれるわけでも、AIが教えてくれるわけでもない。
だが、安心していい。
あなたの本当の幸せの答えは、すでに、あなたの中にある。
あとは、それを取り戻すだけである。
なぜ、こう言い切れるのか。
順を追って、説明していきたい。
「幸せ」は、外から定義できるものではない
そもそも、「幸せ」とは何か。
辞書的に言えば、「心が満たされている状態」とか、「望ましい状態」とか、いろいろな定義が出てくる。
だが、これらはどれも、「幸せ」の輪郭をなぞっているだけで、中身にはたどり着いていない。
なぜなら、幸せの本質は、こうだからである。
幸せとは、自分が感じる感覚の中で、いい状態のこと
幸せは、感覚である。
そして、感覚は、人それぞれまったく違う。
ある人にとっては、家族と過ごす夕食の時間が、最高の幸せかもしれない。
ある人にとっては、一人で本を読む時間が、最高の幸せかもしれない。
ある人にとっては、仕事で何かを成し遂げた瞬間が、最高の幸せかもしれない。
これらは、すべて違う。
そして、どれも正しい。
「これが幸せだ」と、外から決めることはできない。
できないし、決めてはいけない。
あなたの幸せは、あなたの感覚の中にしかないからである。
「幸せ」ということばは、抽象化されたラベル
ここで、ひとつ大事な視点を持ち込みたい。
「幸せ」ということばと、実際の幸せの感覚は、別のものである。
「幸せ」ということばは、無数の「いいよね」という感覚を、ひとつの抽象的な単語に圧縮したラベルにすぎない。
実際に存在しているのは、感覚の方である。
子どもの笑い声を聞いたときの、胸が温かくなる感覚
朝、コーヒーの香りを嗅いだときの、すっと心が落ち着く感覚
散歩中、風が頬を撫でたときの、ふっと体がほぐれる感覚
何かをやり遂げたときの、お腹の底からの満足感
大切な人と話しているときの、時間がゆっくり流れる感覚
これらが、本物の「幸せ」である。
「幸せ」ということばは、これらの無数の感覚を、ひとくくりにするための便宜的なラベルでしかない。
本物の幸せは、ことばの中ではなく、感覚の中に存在している。
現代の課題は、ここにある
ここに、現代の大きな問題が潜んでいる。
多くの人が、「幸せになりたい」と言う。
口にする頻度で言えば、人生で最も多く出てくることばのひとつかもしれない。
だが、よく観察してみると、不思議なことが起きている。
「幸せになりたい」と言いながら、自分の幸せの感覚を、ちゃんと大事にできていない人が、とても多いのである。
どういうことか。
「幸せ」ということばが、独り歩きしてしまっている。
社会のあちこちで、「これが幸せの形だ」という意味づけが、勝手に与えられている。
結婚して、子どもを持つのが幸せ
いい家を持つのが幸せ
高い収入を得るのが幸せ
旅行に行くのが幸せ
SNSで楽しそうな投稿をするのが幸せ
これらの意味づけを浴び続けると、本来そこにあるはずの「自分の感覚」が、見えなくなる。
「みんなが幸せと言っているもの」を追いかけることに、必死になる。
そして、それを手に入れたのに、なぜか満たされない、ということが起きる。
なぜなら、それは「自分が感じる、いい状態」ではなかったからである。
社会が「幸せ」とラベリングしたものを、手に入れただけだったからである。
「幸せ」ということばに振り回されて、自分の感覚から離れてしまっている。
これが、現代を生きる多くの人が抱えている、本当の課題である。
だから、WellGrowは「自分の幸せを認知する」ところから始める
WellGrowが大事にしていることは、ここに直結している。
幸せの定義を、誰かに教えてもらおうとしない。
「これが幸せです」という答えを、外から探そうとしない。
代わりに、自分の感覚を、丁寧に取り戻していく。
具体的には、こんなことから始める。
「いま、何を感じているか」に気づく
朝、目を覚ました瞬間に、自分の中に何があるか。
食事を口に運んだとき、どんな感覚があるか。
誰かと話しているとき、自分の中で何が起きているか。
これらを、丁寧に観察する。
日常の中に流れている感覚に、ちゃんと光を当てる。
「いいな」と感じる瞬間を、見逃さない
日常の中には、実は「いいな」と感じる瞬間が、たくさん隠れている。
朝のコーヒーの一口目。
夕方の光が部屋に差し込む瞬間。
お風呂に入って、ふうっとため息が出る瞬間。
誰かにありがとうと言われた瞬間。
これらを、ちゃんと味わう。流さない。
「これが、私にとっての幸せの一部だ」と、自分に教えてあげる。
自分の感覚を、ことばの定義より優先する
「これは幸せのはずだ」「これは幸せじゃないはずだ」という頭の判断を、いったん脇に置く。
代わりに、「自分は、いま、本当はどう感じているか?」という感覚を、優先する。
社会が「幸せ」と呼ぶものでも、自分が感じていなければ、それは自分にとっての幸せではない。
社会があまり注目しないことでも、自分が深く満たされるなら、それは自分にとっての幸せである。
ことばの定義よりも、自分の感覚を優先する。
この姿勢が、本当の幸せに近づく道である。
幸せを追求していくと、もうひとつのことに気づく
自分の幸せの感覚を、毎日少しずつ大事にしていくと、面白いことが起きる。
幸せの解像度が、だんだん上がってくる。
最初は、こんなふうに感じている。
最初の段階 ― 快楽が幸せだと思う
美味しいものを食べた。気持ちよかった。楽しかった。
これらは、確かに幸せの一部である。
だが、これは、幸せの中の比較的シンプルな層である。
次の段階 ― 達成が幸せだと思う
目標を達成した。誰かに認められた。何かを成し遂げた。
これも、確かに深い満足感をもたらす。
快楽より、もう少し深いところで、幸せを感じられる。
さらに先 ― もっと根源的な感覚に気づく
感覚の解像度が、もっと高まってくると、不思議な発見がある。
何かを得なくても、
何かを成さなくても、
ただ、ここに「ある」だけで、幸せ。
そういう感覚に、出会う瞬間がある。
朝、目を覚まして、ベッドの中で天井を見ているだけ。
公園のベンチに座って、風を感じているだけ。
誰かが近くで穏やかに過ごしているのを、ただ見ているだけ。
そんな瞬間に、「ああ、いまこの瞬間、すでに満たされている」と感じる感覚がある。
これは、何かを獲得したから感じる幸せとは、まったく違う層の幸せである。
「在ることの幸せ」と呼ばれてきたもの
仏教やスピリチュアル、あるいは古代の哲学者たちが、長く語ってきた「在ることの幸せ」は、おそらくここにある。
得るのではなく、ただ在る。
成すのではなく、ただ在る。
評価される自分でもなく、ただ自分として在る。
このシンプルな感覚に、人類はずっと注目してきた。
そして、ここがとても大事なところなのだが、これは、誰かに教わるものではない。
本に書いてあるからそうなる、というものでもない。
ましてや、信仰すれば手に入る、というものでもない。
自分の感覚を、毎日丁寧に磨いていれば、誰でも、いつかはたどり着く場所である。
特別な人だけが、たどり着ける場所ではない。
誰の中にも、もともとある感覚である。
ただ、日常の喧騒の中で、忘れているだけである。
本当の幸せは、自分の感覚の中にしかない
ここまでをまとめると、こうなる。
幸せは、ことばの中にはない。
社会の定義の中にも、ない。
他人の人生の中にも、ない。
幸せは、ただ、自分の感覚の中にだけ、ある。
だから、本当の幸せに近づきたければ、まず、自分の感覚を取り戻すことから始まる。
自分の感覚を、取り戻すこと。
社会の定義に塗りつぶされて、見えなくなっている自分の感覚を、丁寧に掘り起こす。
ことばで頭の中を埋め尽くす代わりに、感覚をちゃんと味わう時間を持つ。
「これは幸せに見えるはずだ」を、「私はいま本当に幸せか?」に変える。
これを、毎日少しずつ重ねていく。
そうすると、いつの間にか、自分にとっての本当の幸せが、輪郭を持って立ち上がってくる。
誰かに定義されたものではなく、自分の感覚から立ち上がる、本物の幸せが。
WellGrowは、毎日3分の対話の中で、この感覚を取り戻していく作業を、伴走する場である。
「今日、いいなと感じた瞬間は、どんな瞬間でしたか?」
「いま、ここで、何を感じていますか?」
「あなたにとっての幸せは、いまの自分にとって、どんな感覚ですか?」
こうした問いに、毎日少しずつ向き合う。
ことばで考える前に、感覚を確かめる。
そうしていくうちに、ある日、ふと気づく。
「ああ、これが、私にとっての幸せだったんだ」と。
それは、外から定義された幸せではない。
あなたが、あなた自身の感覚から、自分のものとして掴んだ幸せである。
これこそが、本物の幸せである。
そして、これは、誰の人生にも、すでに用意されている。
あとは、取り戻すだけである。